着の身着のままで津波から逃れてきた新地(しんち)町の人たちが、避難所からこの仮設住宅に移ってきたのは5月のことです。
新地町で旅館「朝日館」を経営していた村上哲夫さん・美保子さんご夫妻。創業130年の老舗旅館は、そのすべてを津波に奪われてしまったといいます。ただ、夫婦と息子の家族3人は何とか津波から逃れることができ、命は失わずにすんだ。避難所のたった2畳分しかないせまいスペースで、家族は誓いを立てました。「私たちは元気なんだから、みんなを励ましていかないと!」。
小川公園応急仮設住宅には、現在150人の方々が暮らしています。家や財産を流され、家族までも失ってしまった方も数多くいます。震災から半年が過ぎた今でも、その痛みが和らぐことはなく、失意の中で部屋にこもりきりの方も少なくないといいます。
「テレビでは、元気が出てきたとか、復興に向けて力強く頑張っているとか、そんなニュースばかりが流されていますが、現実は、3月11日の時点で時間がストップしてしまっている人が多くいます。そんな人たちは、いまだに“顔を上げる"ことさえできていないんです」(美保子さん)
大切な人を失ってしまったのだから、元気なんて出せなくていい。頑張れなくてもいい。でも、少しずつでいいから、時には部屋から出て、顔を上げて前を向くことができる時間を作ってあげたい。
先日もハンドマッサージの講習会が開催されました。「マッサージをしてもらえるから一緒に行こうよ」。みんなで手分けをして1軒ずつに声を掛けて回りました。さらに美保子さんは、みずからリフレクソロジーの資格を取り、蕎麦打ちの道具も購入しました。「どれも素人レベルなんですけど、部屋にこもりきりの人を外に連れ出すいいツールになるかもしれないと思って」。
8月のお盆には、13日に迎え火をし、14日には手製の祭壇をこしらえて、みんなで1000個のぼた餅をつくりました。15日にはうどんを食べ、16日には送り火を焚いて。最後には、いつもは声を掛けても「私はいいから……」と部屋にこもりきりだった人たちも一緒に、みんなでスイカを食べたそうです。
「下を向いている人は、納得するまで下を向いていていいんだと思う。自分で納得して顔を上げられるその日まで、ここにいるみんなで支えていけばいい。だからこの仮設住宅では“頑張ろう"という言葉は禁止にしているんだ。震災でみんなすべてがなくなった。残された者は、泣いてあげることしかできないんだから、納得するまで泣けばいいと思う」(哲夫さん)
10月10日の体育の日。小川公園応急仮設住宅の集会場前には、たくさんの露店が並びました。ここで暮らす人たちの手で催された「第2回マイタウンマーケット」です。ゴザの上に商品を並べ、子どもと大人が協力して「ひとつの町」をイメージして作り上げていく。そこには、アクセサリー屋さん、花屋さん、カゴ屋さん、ブティックなどのほか、美術館、コンサートホール、なんと役場まであります。
1回目に行ったタウンマーケットよりも多くの人が「町での1日」を楽しんでいったようです。お店番をしている子どもたちとお年寄りが会話をしている。空の下でお茶を飲みながら、家族が秋のひとときを過ごしている。その輪にひとり、またひとりと住民たちが加わっていく。
「旅館のおかみ業はもう卒業です。震災にあい、でもたくさんの人たちからあたたかい手を差し伸べてもらった。だから、これから先の人生はそのお返しがしたい」。美保子さんは力強くそう言います。
まだ下を向いている人がいる。そのかたわらには、いつか顔を上げてほしいと願う人がいる。仮設住宅で暮らす150人の大家族の秋の1日です。
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