兄の茂春さんは、魚群を見つける名人です。最新鋭の魚群探知機を搭載した自慢の船で魚影を捉える。「いたぞ!早く来い」。最初に報せを届ける先は、必ず弟の武夫さんでした。
兄は14歳の時に、弟は兄の背中を追うように19歳の時から、ともに漁師をしています。兄の船の名は長栄丸。弟の船は第二長栄丸。「兄弟船」は40年以上にわたり南相馬の海を漁場に、兄と弟の暮らしと人生を支え続けてきました。
しかし大津波は、兄弟の人生のほとんどを、ひと飲みにしていきました。茂春さんは、家と船、そして妻と両親を。武夫さんは家族は無事だったものの、同じく家と船が流されました。武夫さんは言います。
「6月から民宿をやる予定でいたんだ。自分で魚を獲って、さばいて、それをお客さんに食べてもらえるような。でも、みんな流されてしまった。建てたばかりの家も、できたばかりのパンフレットも、100万円かけて用意した冷蔵庫も、みんなだ」。
今、茂春さんと武夫さんは、残された家族たちと市営住宅の空き部屋を避難所にして暮らしています。船も網も流されてしまった兄弟は、あの日以来、陸(おか)での生活を余儀なくされています。夏、海に出ることがなくなって4ヵ月。「体重が5キロも増えてしまったよ」と話す茂春さんはこう続けます。
「6月は水だこ、7月はヒラメ、8月になればシラスを獲りに海に出るはずだった。秋になればシャケが獲れるし、冬は子持ちカレイの季節だな。今、俺たちは陸に上がったカッパだ。なんもできん。カッパは海でしか生きられん」
俺たちは海でしか生きられない。兄弟は、震災から3ヵ月が過ぎたあたりから、もう1度、漁に出たいと思うようになったと言います。壊滅的な被害を受けた南相馬の港では働けない。それならばと、県外のいくつかの漁協に「漁をさせてくれないか」と頼みに歩いても、60歳を過ぎた兄弟を両手を挙げて歓迎してくれる場所はなかなか見つからず、兄弟はいまだ陸に残されたままです。
漁師を始めたばかりのころ、まだ船酔いをする弟の武夫さんを、兄の茂春さんが必死に励ました。いつも2人で網を引き、誇らしげに掲げた大漁旗を見上げて喜び、酒を酌み交わし、また次の日、2隻の兄弟船は肩を並べて、日の出とともに南相馬の海へと船を走らせた。
「誰にも割くことができない兄弟だ」。武夫さんの妻・澄子さんはそう語ります。
7月初旬、震災以降、兄弟は初めて海に出ることになりました。武夫さんは言います。「海の中に置いてあるたこ壺に、流木やら何やらが引っ掛かっているから、それを掃除しに行くんだ。まだ当分のあいだ漁はできないかもしれないけれど、でも、嬉しいよね。とにかく海に出られるんだから。兄ちゃんと一緒に行ってくるよ」。
もう一度、兄弟で大漁旗を掲げるその日まで、あきらめない。兄弟船は沈まない。南相馬の小さな漁港で、兄と弟の復興への道のりは、まだ始まったばかりです。