「109年間、刻んできた歩みがピタッと止まってしまった」と伊藤チイ子さんは涙ながらに語ります。
南相馬市にある『ゑびす屋菓子店』の創業は明治。お饅頭、柏餅、たいやき、マドレーヌ……和菓子から洋菓子まで40種類以上の菓子を作り続けてきたゑびす屋は、地域に愛されてきた老舗の菓子店でした。
屋根瓦は崩れ落ち、壁は剥がれ、2階は足の踏み場もないほど物が散乱している……地震による損害は小さくなかったものの、幸いにも津波の被害を受けることなく、菓子工場も何とか持ちこたえてくれた。しかし、伊藤さん一家が本当の恐怖に襲われたのは、震災翌日のことでした。
「福島第一原発で水素爆発が発生」。伊藤さん宅から原発まではおよそ31キロです。伊藤さん夫婦、長男夫婦、次男夫婦、そして孫たちの一家10人は、福島市へ緊急避難することに。一家には、一刻も早く安全な場所に向かわなければならない重大な理由がありました。次男のお嫁さんが妊娠9ヵ月の身重だったのです。
しかし、福島市につながる道路は混雑し、いつ到着できるのか見当もつなかい状況でした。途中でガソリンが尽きて立ち往生するわけにはいかないと、伊藤さん一家は、避難する先を山形県米沢市に変更。車の中に布団を敷き、身重のお嫁さんを寝かせながら必死に避難したと言います。
4月19日、無事に孫が産声を上げました。「央真(おおま)」と名づけられた男の子は、その後も元気に成長を続けています。伊藤さん夫婦も4月29日に米沢から南相馬に戻ってきました。
「今はかつて住んでいた工場のある自宅には住んでいません。少し離れた高台のもう1つの別宅で暮らしています。日中は、菓子づくりをするために工場のある自宅へ戻る生活です。でも、生活が元に戻ったわけではありません。震災以降は、何もかもが変わってしまいました。まったく先が見えない状況の中で、今も菓子を作り続けています」。
5月の節句、例年なら何万個と売れる柏餅が、今年は100個も売れなかった。いつもお菓子を買いに来てくれる近所の人は、ほとんどが避難して南相馬にはいない。売上げは3分の1にまで落ち、生活するだけで精一杯の毎日が続いています。
「ここで生きていくのなら、この場所で作り続けていくしかないと思っています。でも、現実はあまりにも厳しい。買ってくれる地元の人はおらず、南相馬で作っている菓子は全部被爆しているよね?と言われてしまうほど、風評被害もすごくて」。
ゑびす屋は、長男が後を継ぐ予定でいます。今、長男は急場をしのがなければならないからと、山形県東置賜郡にある「菓子工房 ぶどう畑」で店長として働き始めました。「いつか必ず南相馬に戻る。そして、ゑびす屋を立て直すから待っていてほしい」。長男からはそう言われています。「だから、前向きに、前を向いていかなきゃと、自分に言い聞かせています」。
震災の日に止まってしまった時計の針を、何としてでも、ふたたび前へ。ゑびす屋菓子店が迎えた109回目の夏です。